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Oct.

2014.10.03

「昔は良かったなぁ」「最近の若者は」議論に思うこと

「最近の若者は」って言われることを過剰に嫌う人も結構いるけれど、僕はそうでもないなぁと思う。でももしかしてそれって、少なくとも頭が「最近の若者」だと自覚できていないことなんじゃないかって少し心配しています。

この前会社で徹夜作業しているときに、このBGMに出会いました。

【作業用BGM】1991年生まれが見ていたアニメ【男の子向け】

懐かしいな~というのは良いとして、コメント欄。昔は良かったとか、今の音楽はダメだとか、そういうのが多くて、ちょっとびっくり。安直だなぁとまでは言わないけど、本当にそうかな?って。

おかしいのは、それを1991年前後生まれ、つまりまだ20代前半前後の人たちが揃って「昔はよかった」議論をしてることなんだよね。僕もほとんど同じだけど、そんな昔っていうほど昔でもない気がして。笑

でもそれって、当時(子どものころ)知っていた音楽の種類と、現在知っている音楽の種類(世界)の広さが全く違うからっていうだけなんだろうなぁと。

大人になると苦手だったものが食べられるようになるのって、舌の味覚を感じる細胞がだんだん死んでいくからだっていう説があるけど(調べてないけどよく聞く)「昔はよかったなぁ」って言いたくなるのって実はそういうことなのかもなって思った。

「音楽に感動する細胞(という言葉で仮に表現)」がだんだん死んでいく、とまでは言わないけど、簡単なことに感動したり好きだと思ったりはしなくなっていくと思うのね。年をとるごとに。
正確には、年をとるごとというか、より多くの作品や事象に出会うごとに、というべきだと思うけど。

分母が全然違うんだよね、それに出会った時の。単純化して言えば、めざせポケモンマスターの歌を初めて聞いた頃に知ってた曲数と、ようかい体操を聞いた今知っている曲数の違い。

「最近の若者は……」って

そのへんからちょっと連想したんだけど「最近の若者は」議論も似たようなもので、今はダメだって言いたくなるってことだと思うんだよね。

「自分が若者だったころの経験値で為したいろいろなこと」当時の感動と、「自分の経験値が増えた今、若者が為していること」への感動を比べてしまっているんではないだろうか。

ちょっと強引ですが。

不思議なのは、舌の細胞も数が減ればピーマンが食べられるようになるっていう単純なものではなくて、たぶんどっかで自分の世界の中でパラダイムシフトが起こってるんだよね。どこかで好きになった!っていう。

最初の印象って、結構引きずっているんだろうね。でも、そういうことが、音楽や、その他のものに対してもたまには起こってるんだろうか?

「昔はめっちゃポケモンの曲名曲だと思ってたけど、まぁ改めて聞いてみるとそれなりだよなぁ」みたいな。案外普通にあるかな?

もしかしてどこかで「感動値」の変換が起こっていたとしても、この場合は思い出補正とか、そういう変数も考えなくちゃいけないだろうから複雑だけれども。

まとまらないけどそんなことを思いました。

と、いうわけで

「最近の若者は」と言われてカチンときたら、「ああこの人は年をとって経験値のある自分の薄い感動値の中で生きているという自覚がないんだなぁ」と思ってみたらすこしスッキリするかも。

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