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Sep.

2015.09.15

風とサボタージュ

しばらく梅雨のように雨が続いていた。台風だとかなんとか低気圧だとか、原因はあるんだろうけれどそれにしてもしばらく長い間雨だったような気がする。

先週の金曜日、朝からJR大崎駅の近くで打合せがあったので、眠い目をこすりながら参加した。低気圧続きで体から眠気が追い払えていないような気がしながら、打合せしたビルを出た時、思わず息を呑んでしまった。大きな台風が一つ去って久しぶりに顔をだした太陽がそこにあって、それを見ていたら思わず涙があふれてきた。

美しい。

美しすぎる。

何バカなことを、とさえ思われるかもしれない。逆に言えば、普段どれだけ感動が薄い日常を送っているのか、と心配してくれる人がいるかもしれない。とにかくここ最近で出会ったことのないような”衝撃”で、驚きとか喜びとかみたいにはっきりと色を持つ前の原油のような状態の気持ちになった。

久しぶりに仕事でやりづらい案件に当たっていたり、本業以外のタスクがたまってしまっていたり、週末プロジェクトに無暗に手をだしたり(これは全くもって自分に非があるのだけれど)、そして何より、やりたいことやってない、という漠然とした気分の悪さが日々追いかけてくるような毎日。少なくとも、決して心に余裕があるとは言えない中だった。

心に余裕があるからこそ、美しさに感動し、悲しさに涙できる、ともいわれる。
一方で、ダメになりそうなときだからこそ、痛いほど身にしみてわかる優しさというのもあるんだろう。

そんなことを考えながら、ユーミンが「Hello, my friend」の中で歌ってる「台風がゆく頃は涼しくなる」ということばを思い出す。そういえばこの歌も、ただ夏という言葉しか使っていないのに、いつまでも続く気がした灼熱の夏が終わって去っていく時にはスピードを上げてどこかへ行ってしまう、ちょうど今みたいな瞬間を歌っているのだと思わせる。

そうか、秋晴れの美しさなのか。ああ夏は終わってしまった。季節が変わるたびに「ああこの季節はなんて素晴らしいんだ」と思い直すタイプなので(とんでもなく都合の良いやつだ、と言われたりもするけれど、僕はそれが気に入っている)夏が終わったら自動的に「秋が素敵」モードになるのだけれど。

夏の日と同じように日差しはまだしっかりしているけれど、顔に当たる風が違う。いつもこの時期に昼間の日差しを浴びながら冷たさを持った風が顔に当たると、学生のころを思い出す。

高校を卒業するまで(大きな意味では今も、なのだろうけれど)僕は特に周りから見たら真面目なタイプだったように思う。こういうことは自分自身がどう思っているかということより、人がどう見ているかということのほうが前に出てきやすいから、いくらかそういう声を聞くことを思えばそれが正しいのだろうと思うけれど。

それは、中学の時に授業をサボってBOOKOFFで漫画を読んでいたり、高校には気が向くまで学校に行かず遅刻していったり、持久走をサボって部室で麻雀してたり、そういうことはしなかったという意味の「真面目なタイプ」だ。自虐的に言うと、そういう勇気や尖った部分を持つ極端さを持てない人間だと表現することもできる。

大学に入っても、特に自分自身でそういうスタンスはイジらずに過ごしていたけれど、入学して半年が過ぎて後期課程に入ったとき、講義室で講義されてても仕方ないな、と思ってしまった瞬間が現れた。ふと。そして、出席しようと思っていた大教室の手前で引き返して散歩しに行った。人生で初めてのサボりというまでのものではないし、その行動自体が自分自身に特別な意味を持たせたものでもない。

だけどすごく覚えてる。
それが、9月の終わりの、いわゆる抜群の秋晴れの日だった。

それ以来、秋晴れは自分の中でサボタージュにつながる記号のようになった。

今でも秋晴れと、その日差しと一件不釣合いな冷たさのある風を感じると、どうしても目の前のものを投げ出してしまいそうな、もっというと逃げ出して当然のような気分になってしまう。

そんなことはしない、変に大人な自分を抱えたまま、だからこの前は、涙してしまったのかもしれないな。

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